天城湯ヶ島温泉旅館 > 落合楼物語

その昔湯ヶ島は、金と温泉に恵まれた山村でした。金の採掘は室町時代から行われ、その後、温泉が注目されるようになりました。

温泉が豊富な湯ヶ島は、天城越えをする旅人にとって、山中のオアシスでした。旅人が天城越えで消耗した身体を湯ヶ島の温泉に浸かり英気を養う地として昔から利用されておりました。

物語はここから始まります。

明治時代に創業された落合楼誕生秘話

この地区で金を採掘していた足立三敏氏は、この湯ヶ島の本谷川と猫越川が合流して狩野川となる地点に金山の事務所を構えていました。事務所には、東京などから色々な関係者がこの地に足を運びでいました。都会から遠く離れ、交通手段が発達していない時代にあっては、旅の疲れを癒すために温泉に浸かり、ついでに、大自然のなかで都会の猥雑を洗い流すために、長逗留するお客もいたようです。

足立氏に、温泉旅館をつくるという発想が湧いてくるのは、必定だったと思われます。それも、天城越えをする旅人を対象にではなく、事務所を訪れるお客や、深山幽谷の霊気に触れるためわざわざ大都会からやってくる、恵まれた人々を対象にした旅館として考えていたようです。

明治七年(1874年)、その旅館は完成して「眠雲楼」と名づけられました。当時は、司法卿の江藤新平が故郷に帰って挙兵した佐賀の乱、政府は台湾征伐のため出兵するなど、世相は混沌としていました。三年後には西郷隆盛をかつぐ薩摩士族と政府軍との間で西南戦争が起きています。都会の人々は疲弊しきっていました。旅館の名称には、温泉に浸かり、ゆったりと空を眺めながら休んでほしい…当時の人々にオアシスを提供したいという願いが込められていたと思われます。つまり、都会の人々に安らぎを与えたい、というのが旅館づくりの原点だったのです。

現在の眠雲亭の名は、創始者の思想をそのまま受け継いでいます。当時の建物は今は残っていません。しかし、現在の建物から考えると、かなり洗練された都会的な建物であったと想像されます。そして深山幽谷に忽然と出現した都会の洗練が人を呼び、眠雲楼は人から人へと口伝えによって静かなブームを呼び、多くの文人墨客が集まる旅館になりました。幕末に、江戸城明け渡しに際して、西郷隆盛と交渉した旧幕臣の山岡鉄舟も、その一人です。維新後は明治天皇の側近になり、禅を学び、書をよくしていた山岡は、この山深い温泉旅館をこよなく愛していたようです。

山岡鉄舟が逗留していたある日のこと、旅館のそばを流れる川を眺めていた時、左手から本谷川が流れ、右手から猫越川が流れて目の前で合流し、落ち合っていることを発見して、旅館の名前を「落合楼」にしてはどうかと、旅館の主人にアイデアを提案しました。主人はその提案をすぐに飛びつき、明治十四年、眠雲楼は、その名を現在の「落合楼」に改名したのです。その後、明治時代には、田山花袋、島崎藤村、蒲原有明、武林無想庵、木下杢太郎等、名高い文人墨客が訪れるようになり、落合楼で滞在していた時に残した息づかいが作品の中に込められ今もその趣を伝えています。

多くの作家や芸術家が訪れた大正時代の落合楼

大正に入ると、川端康成が頻繁に湯ヶ島に訪れるようになりました。
「伊豆の踊子」の着想に、落合楼は深く関係していました。
昼間に落合楼の部屋を借りて、伊豆の踊子の執筆をしていたと云われております。「湯ヶ島の思ひ出」には次のような下りがあります。

「私は落合楼の庭を通り抜けてみたり、前の吊り橋から二階を仰いでみたりして、秋や冬だと、私の宿ではまあ見られない都会の若い女、女に限らず男までもが、廊下を歩いたり庭に佇んでいるのが見えると心安らいで自分の宿に帰るのである」

ちょうどこの頃、梶井基次郎も湯ヶ島に滞在していて、落合楼に泊まっていました。昭和三年発表の「蒼穹」は、落合楼付近を舞台にした作品であります。

その他にも淀野隆三、尾崎士郎、宇野千代、広津和郎、萩原朔太郎などの多くの作家や芸術家が落合楼に滞在しました。さらに映画ロケも盛んに行われ、大正時代から昭和元年にかけて、島津保次郎が「山募るる」「水車小屋」など、四本の映画ロケのため長期滞在している。
そのときは、女優の梅村蓉子や三村千代子らも落合楼に宿泊し、玄関前で熱演していました。また、現在も当館の敷地で数々の映画やドラマでロケ地として利用されております。

国登録有形文化財として指定された昭和時代

昭和になってからも多くの文人墨客が訪れました。当時の湯ヶ島は山桜の里でもありました。狩野川の周辺を四方から囲む山々には、山桜がびっしりと生い茂り、春になると白い花びらの絨毯が旅人の目を奪いました。そうした湯ヶ島を愛してやまなかった若山牧水は、山桜を題材にして沢山の歌を歌っています。

そうしたお客を迎い入れるため、落合楼が大改築されたのは昭和八年のことです。まず、玄関棟と本館が建築されました。工事に当たったのは、近在の青木清平という棟梁です。

本館につづいて眠雲亭、紫檀宴会場、およびそれらをつなぐ配膳室階段棟などが次々に建築されました。これらの建築物は国の指定文化財になりました。お客様が宿泊する各部屋や宴会場、果ては階段に至るまで個別に文化財に指定されている旅館は、とても貴重な存在となりました。自然をいかにして建物のなかに取り込むか、その工夫の跡が随所に見受けられます。

本館が完成して間もなくやってきたお客が、北原白秋です。昭和十年一月に二十日間ほど滞在して歌作に専念されました。
白秋が長逗留したのは、当時の落合楼の経営者と親交があったからと云われております。

またこの頃、落合楼の創始者である足立三敏氏が発見した持越鉱山は、最盛期を迎えており従業員千二百人を擁する
日本有数の金山になっていました。そのため、政官財の要人や取引関係者などがぞくぞくと詰めかけていました。

平成十四年…そして落合楼村上へ

平成14年11月、落合楼は現在の「落合楼村上」として再スタートしました。経営を引き継いだときは、建物の壁、天井、柱、廊下、ステンドガラス、庭園などは手入れが行き届かず、折角の文化財が輝きを失っていました。

このため、従業員皆でまずは建物を磨くことから始めました。落合楼の伝統を磨き上げさらに発展させるためです。現在、落合楼は、ありし日の輝きを取り戻しつつあります。女流陶芸家の草分け辻輝子女史をはじめ多くの作詞家や作曲家が集まるようになりました。

また、昔のように映画やドラマのロケ地としても利用されるようになり、落合楼物語の第二幕が始まったのです。